先生は5時から「父ちゃん」です。

10年以内に、本を出版できるような人間に。5時半に絶対帰る小学校教員。年間100冊本を読む3歳児の父ちゃん。

本の内容を忘れないようにするには

月に3冊読んで、3冊アウトプットする人と、月に10冊読んで、1冊もアウトプットしない人。

どちらの方が成長するのか。それは、月に3冊読んで3冊アウトプットする人、だとか。

また、忘れないようにするには、インプットにかけた時間の2倍を、アウトプットに費やすこと。

そして、インプットした情報を、その後2週間で3回使うとより定着するとのこと。

学びを結果に変えるアウトプット大全 (Sanctuary books)

学びを結果に変えるアウトプット大全 (Sanctuary books)

 

その理由は「運動」+「記憶」。

この本によるとその理由は、アウトプットをするということは運動である、とのこと。

この運動を伴って記憶をすること、すなわち「運動性記憶」は、一度覚えればほとんど忘れないのだとか。

 

小学生の頃、やたらと書いて漢字を覚えたり、声に出して覚えたりさせられたりしたことがある。確かに、「見るだけ」「聞くだけ」で覚えることよりも「書く」「話す」方法をとったほうが、定着が速いという実感は、ある。

 

読んだのに覚えていない残念な経験…。

自分も、本を過去にもいくつか読んだが、「あること」をするまでの本の内容の記憶はほとんどない。

読んだのに内容が思い出せない残念な本がいくつもあり、それを見るたびに悲しくなった。

司馬遼太郎の『竜馬がゆく』なんてまさにそうだった。学生の頃一生懸命読んだが、正直ほとんど覚えていない。全8巻ある大作を、読了することだけが目的で、読んだ俺カッコいい、と自己満足したかっただけだったのかもしれない。

 

読書ノートをつけ始めたことで変わったこと

「あること」とは、読書ノートをつけ始めたことである。

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

読書は1冊のノートにまとめなさい[完全版]

 

これを読んで、「気づき」をノートにまとめ始めた。

これがとてもいい。たまに見返すことで、忘れない。読書の内容が血となり肉となっているような感覚がある。以前の「竜馬」時代の読書とは全く違うものになった。読み終えた本の内容が大体思い出せる。

 

読書感想文という、本嫌い大量生産システム

ただ、そもそも読書後にアウトプットをする行為自体にあまりいいイメージがなかった。これは絶対に、小学校時代に強制された「読書感想文」のせいだと思っている。

今でも「課題図書」「自由図書」の2つの部があるが、「課題図書」の方は最悪だった。興味のない読みたくもない本を読まさせられ、適当な賛辞の言葉を並べるだけの苦痛なお勉強。

 

とある学校の実践で「物言う校長」が、「本好きの子どもを育てろ」と強引に実践をさせたらしい。

内容は、図書室に来た子供に、強制的に感想を書かせる、というもの。その強制力を伴った実践中の様子をひとつのレポートにして、学校全体の取り組みとしてなんだか素晴らしい表彰を受けたらしいのだが、実践取り組み期間終了後、キレイにほとんどの子が図書室に寄り付かなくなり、本嫌いを大量に生み出してしまったそうだ。残念な話である。

 

「段落」とか、「筆者の考え」とかを書かなきゃいけないと思うからつまらないものになってしまうが、「気づき」とか、「自分の考え」を書いておくのは楽しい。しかも、書く形式は一切気にせず、汚いメモで十分。こんな読書指導を子どもにもしてやりたいものである。

 

読んだ本の内容を忘れないようにするためには

月に3冊読んで、3冊アウトプットする人と、月に10冊読んで、1冊もアウトプットしない人。

どちらが成長するのか。それは、月に3冊読んで3冊アウトプットする人。

 

忘れないようにするには、インプットにかけた時間の2倍を、アウトプットに費やすこと。

また、インプットした情報を、その後2週間で3回使うとより定着するとのこと。

自分もこのブログや、嫁さんとの会話、子どもたちの前で喋る時間を利用して、アウトプット力を磨いていこうと思う。

 

学校行事なんてなくしてしまえ

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学芸会の準備で忙しくなる二学期。学期の初めは、行事関連の仕事が多い。

春は運動会。二学期は、年によっては作品展の準備。

 

行事なんて、なくしてしまえばいいのに、と心から思う。

もしくは、簡素化してしまえばいい。でもきっとそれはできない気がする。

 

時間かけすぎ・保護者期待しすぎ問題

運動会の例。

保護者の期待に応えないといけないという空気が、本校にはある。

数年前、最高学年の表現運動の指導にとても強いこだわりを持つ先生が赴任してきた。その方は指導に指導を重ねて、当日保護者が大感動をする、素晴らしいものに仕上げたらしい。

そこから、本校の保護者の求めるハードルが上がってしまった。下学年の親が、「うちの子も最高学年になったら、あんな運動会にしてほしい」と思ってしまった。

 

この先生の指導力は素晴らしかったのでしょう。ただ、問題なのは、「子供のため」という言葉を振りかざし、足並みを揃えなかったこと。また、運動会の指導により多くの時間を費やし、他の時間を圧迫したこと。

 

そんなのおかしい!と、正規の授業時間数で運動会の表現運動をつくりあげた先生の年に、悲劇が起きた。保護者の事後アンケートで、クレームが殺到した。

 

「見応えがない」

「子供たちがかわいそう」

「来年はもっとすごいのを期待します」

 

この親の空気は子供に伝わる。一生懸命練習していたのに、自分たちはだめだったんだ、という感情をもつことになってしまった。

 

そもそも行事はだれのためにあるの?

「ショーとして観にくる保護者のため」

指導力を見せつける教師のため」

「みんなで1つのことを成し遂げる経験をする児童のため」

 

誰のためにあるのだろうか。もはや誰のためでもない気がする。指導していて、毎年この行事で違和感を感じている。

子供だって、運動会が嫌いな子はいる。人前で表現をさせられることに、抵抗を覚える児童はたくさんいる。高学年になればなるほど、イヤイヤやっている子はたくさんいる。

 

なのに教師は

「一体感がない!」「思いを1つに!」「やると決めたはずではないか!」「見られてるんだという意識をもつんだ」などと今思えばわけわからないことを口にする。表向きには「チームワーク」を大切にする経験を味わわせるために、というものがあったとしても、結局保護者や周りの教員の目を多少は気にしているはず。

 

あんな誰も何も得ないものはなくしてしまえばいいと思う。

運動会をやるならば、かけっこや玉入れだけで、練習もいっさいなし。「騎馬戦の入場の練習に2時間」なんて、訳がわからない無駄な時間はないと思っている。

行事の簡素化。でも簡単ではない。クレームの嵐だろう。「見応えがない」と。

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学校が本当にやるべきことは?

正直、一学期は運動会の練習漬けになり、残りの時間でなんとか授業を「終わらせる」というのが現状。そんな授業に「主体的で対話的な深い学び」だなんて要素はほとんどない。

二学期も「学芸会」「作品展」。保護者や周りの目が気になり、練習漬けの日々。無事行事が終わったら、なんとか授業を「終わらせる」日々がまた始まる。思考力を鍛える時間などない。

それに、「思考力を鍛える授業を考える時間」がない。行事のこと考えなくちゃいけない。

本当に学校で時間をかけるべきことに、全然時間をかけられていない。子も教師も。

 

今年の二学期は学芸会。

運動会よりはまだ子供に色んなことを任せられる行事ではある。

なのである年に、かなりの部分を子供に任せて挑戦したことがあった。保護者にも、子供が中心になって取り組んでいますと伝えていたつもりだった。

 

しかし、残念ながら、クレームが届く。もちろん、よく頑張っていたという声もあったが、終了後のアンケート用紙に無記名で

 

「園のお遊戯会の方が見応えがあった」

 

と書かれていた。

見応えってなんだ?何を見ているんだ?

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なくせない行事がまた始まる

と、ブログに書くのが精一杯で、結局何も変えられずに今年も行事が始まります。

世の中はめまぐるしいスピードで変わっているのに、教育現場は何も変わらない。変えられない。

 

教育課程の重要なポイントの伝達の仕方は未だに「口伝」。いつの時代の話なのか?誰も聞いていないぞ。

 

今日も前習え、明日も前習え。

これではいけない、まずは行事を撤廃・簡素化することから。

思ったなら、実行しなくてはいけませんね。

ちょっとやってみようと思います。

1000冊読んで、本を出版するには

まず、自分の価値を高める努力が必要。

目安になる時間数として、10000時間何かに没頭してみる、という考え方がある。

 

10年以内に本を出版できるような人間になりたい。と思った

漠然と掲げた目標。「10年以内に本を出版できるような人間になりたい」は、この本を読んで思いつきました。

今、話したい「学校」のこと

今、話したい「学校」のこと

 

藤原和博さん。民間出身の元中学校校長。リクルートでの勤務等を経て、中学校で教育現場の改革を行った方。

何だって10000時間訓練すれば習得できるという10000時間の法則が有名ですね。

この本の中に、「1000冊の本を読んだ今、私は著述家になっている」という内容が。

 

おお…!1000冊読めば本が書けるのか?!ほんとか?!

10000時間かけて1000冊の本を読めば文章力も向上し、本を出版できるのか?!

 

と、早合点。

いや、わたしには無理でしょう。

 

10000時間かけて1000冊読むことで本が書けるなら、きっと世の中そんな人はそこそこいる。

この方には何かに10000時間かけて努力した経験が、私のようなくそ凡人とは比べ物にならないくらい多岐にわたってあり、それらの経験が掛け合わさって言葉や文になり、本という形に残すことができるのでしょうね。

 

貴重な存在の話には耳を傾けたくなるもんだ

つまり何かひとつだけではなく、10000時間ほどかけて習得したことが複数ある存在になるといい。そういう存在は貴重であり、価値があるのだとか。

 

著者によると、1日3時間向き合えば、3時間×365日×10年で10000時間を達成できる、とのこと。

1日6時間向き合えば、その半分の5年でその分野のことは習得できる、とのことでした。これは赤子が言語を獲得する時間と同様だとか。なるほど。

 

10年間学校の先生をやった人はゴロゴロいるが、変な例で例えると、

 

・学校の先生として10年勤務経験があり、

・牛の解体の仕方を10年間勉強していて、その知識に明るく、

・10年間女装家(?)として活動し、一目を置かれている人。

 

だなんていう人がもしいたら、それはとても貴重なレア人材ということ。

女装家だなんて極端な例を書きましたが、話を聞いてはみたくなる。(保護者ウケは最悪でしょうが…子供には人気が出るかも…)儲かるとか、そういうことではなく、人として面白い。

 

自分に価値、希少性があれば、人は興味をもってくれる。

そうしたら、出版も夢ではないかもしれない。

これは、ブログにも当てはまることなのではないか?

 

今の自分は貴重な価値のある存在なのか?

じゃあ自分は複数の価値があるのかどうか。

1つ目。

・小学校教員として10年以上勤務。

現場のことはある程度知っている。激務だと言われている中で何とかして絶対5時半に退勤するノウハウに、多少興味がある方はいるかもしれない。

 

2つ目。

………あれ、もう無いではないか!

 

今すぐ出版なんて夢のまた夢である。何て恥ずかしい奴だ。

そんなそこそこいるような人間のありふれた主張など、価値も意味も大してないわけだ!

 

10年かけたら、自分にも何かできるのではなかろうか。

そうして価値をもつことができたら、一冊の本にできないだろうか。

世の中に価値を投じられる人はすごいと思う。

 

そもそも公立の先生は兼業できないはずだが…について

そもそも兼業禁止の公立学校教師が本の出版をすることができるのかと疑問に。

結論から言うと、どうやらできるようです。

教育公務員特例法によると…。

 

第三十三条 前条に定める者は、教育に関する他の職を兼ね、又は教育に関する他の事業若しくは事務に従事することが本務の遂行に支障がないと任命権者において認める場合には、給与を受け、又は受けないで、その職を兼ね、又はその事業若しくは事務に従事することができる。

http://www.e-gov.go.jp 教育公務員特例法

 

と、あります。

ただし、教育に関する他の事業若しくは事務に従事することが本務の遂行に支障がないと任命権者において認める場合という条件において。

本屋の教育書コーナーに行くと、公立の学校に勤務されている方の著作も多く並んでいますね。

 

 

1000冊読んで、本を出版するための一歩は

自分の価値を高める努力。

目安になる時間数として、10000時間没頭してみること。そして、自分の価値を高めること。

 

よし、とりあえず、10年かけて、1000冊本を読もう。

ただ本を読むのではなく、昨日の記事のように、情報に餓えた上での1000冊を目指したい。

 

ippoippoippoippo.hatenablog.com

 

そして、もう10年、先生を頑張ろう。

学級経営者としてのプロを目指そう。

 

読書×先生…。ありがちだ。そして堅苦しい。誰がそんな奴の本を読みたがるんだ?

読書×先生×?

あともう一つ…何だろう。色々やってみるうちに見つかるだろうか。

 

読書×先生×料理

読書×先生×トライアスロン

読書×先生×育児

読書×先生×コーヒー……?

 

テキトーに書いてみて、どれも悪くはないが、インパクトに欠ける。

小学校の先生という職業の守備範囲が広すぎるせいで、インパクトに欠ける。

時間割表にある国語算数理科社会音楽図工体育家庭科…の分野と被っていると、仕事では役立つかもしれないが、何だかありがちに感じるなあ。

 

やはりさっきの「女装家」だなんてのはすごいインパクトだ。

読書×先生×女装家…。

ヤバそうな感じが半端ない。でもちょっと話は聞いてみたい。確実に保護者や世の中は炎上するだろうけど…。

 

あ、でも今気づいたが、尾木ママはこれに近いか?!

尾木ママがテレビで活躍できる秘密はこの希少性か!

 

教育評論家×オネエ系

 

なるほど…。

 

でも、気付いていないだけで、既に10000時間級のノウハウを意外な分野でもっているのかもしれない。

例えば…やたらとお菓子に詳しいとか。どこでも寝れちゃう方法とか。

 

娘を何とかして寝付かせる方法…とか。

あ…嫁の機嫌を損ねない方法…とか。

 

…まあ、とにかく、出版ができるとかどうかなんて置いておいて、日々何かに一生懸命生きることですね。

 

今、読むべき本の見つけ方。

それは、「必要とする情報に飢えること」

そして「どんな情報を必要としているか把握すること」

 

今読むべき「本」は何か?と誰かに聞いたりインターネットでランキングを見たりすること、自分もよくやります。

 

そうやって他を当たって、自分がどんな本を読めばいいのかを探して読書をすることよりも、「自分が必要としている情報を把握すること」が、読書では大切なのだそうです。

読書をするかしないかが問題ではなく、どんな情報を自分は必要としてあるのかを自分で把握できるかどうかが問題である。

 

『無趣味のすすめ』 村上龍

とのこと。

どんな本を読めばいいか?を考えることが大事なのではない。読書をすることそのものが大事なのではない。

必要な情報に飢えていることが大事なんだ。

 

と、いうようなことが村上龍さんの『無趣味のすすめ』

無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)

無趣味のすすめ 拡大決定版 (幻冬舎文庫)

 

に書いてあった。

 

乱読は小遣いという限界が…

乱読・多読をすすめる本を読み、下手な鉄砲数打ちゃ当たるでいくつか読んでみたが、正直はずれ(自分にとっては、だけですが。)と感じた本もいくつかあった。

 

そもそも、読書をし始めた頃は、何を読めばいいか分からなかった。今リストを開いてみても、ああ、この本に1400円は高かったなあと思うものもある。(まあ、いつか花開くときがあるかもしれませんが。)

お小遣いの範囲の読書。限界がありますし。

 

自分が今必要としている情報をきちんと把握しているときの読書スピードは、そうでない時と比べて、とても速い。また、より強くインプットされている。

 

そして、知りたいことがある、仕事や生活で今この情報を欲している!というときの読書はとても楽しい。

 

幸せな読書時間…必要な情報は「演劇」

先日、学芸会の台本を作る際、演劇のことを知ろうと思い、2冊本を読んだ。

 

演劇やろうよ!

演劇やろうよ!

 

 

演劇やろうよ!指導者篇

演劇やろうよ!指導者篇

 

ぐいぐい読めた。得たものも多かった。これを読んでいたときの感覚は、とても幸せな感じがした。喉が渇いたときに、冷たい水を飲むあの感じに近い?

 

この時は、明らかに「演劇」という情報に飢えていた。この2冊は貪るように読んだ。こういう読書の仕方が大切なのではないかと思う。

 

本を読むことそのものを大事にするのではなく、知りたい情報に飢えた状態でいることが大事、ということ。

 

小説でもなんでもきっとそうだ。自分は、重松清に飢えていないと、重松清をなかなか読み進めることができない。

学生の頃は司馬遼太郎に飢えていた。司馬遼太郎の書く歴史の地をバイクで巡ることが楽しかったからだ。

今、自分は司馬遼太郎が読めない。残念ながら花神関ヶ原のそれぞれ一巻が積ん読になっている。それは、必要としている情報ではないからだ。各地を飛び回る偉人に感情移入できないからだ。

 

ただ、著者の村上龍さんも中で述べておられるが、どんな情報を今自分が欲しているかを正確に把握することは難しい。毎回の読書がそうであるわけではない。

 

常にアンテナを張り、必要な情報に関わるメモを生活の中で漏らさずにとり、自分の中に読書を通して落としていくことが大切と感じた。

 

じゃあ、今自分が飢えている情報は?

そうすると、今の積ん読リストは

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

 

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 

 

プロトレイルランナーに学ぶ やり遂げる技術

プロトレイルランナーに学ぶ やり遂げる技術

 

うーん、本当に今必要としている情報ではない!

不必要ではないが、「飢えている」というほどではまだない!!

この積ん読を消化することに重きを置くのではなく、自分がいったい今何を必要としているかを考える。また、その気付きの手がかりとなるモノやコトとの出会いを見過ごさない。

じゃあ、なんだ。今飢えている情報は何だろう…と考えた。

 

わかった。「上手なブログの書き方」「上手な文章の書き方」だ。

さあ、すぐにamazonだ…。

まじめに教育の力を考えている場合ではない…。AIのことを学んでいる場合ではない…。プロトレイルランナーにどうしても今学びたいわけではない…。今はそんなことに飢えてはいない…。今知りたくて仕方がないのは、どうしたらもっと上手に文を書けるか、ブログの質を上げられるかだ…。

 

 

今読むべき本の見つけ方。

自分の必要としている情報に飢えること。

その情報を把握すること。

 

『無趣味のすすめ』村上龍さん。

とても素敵な本でした。

教務主任にはなりたくないな、という話

教務主任って

先日、以前校長をされていた大先輩に言われた。

「今の時代は、みんなが教務主任になる可能性があるような時代。人が少ないし。」

 

教務主任。

教務主任⇨教頭⇨校長という管理職への入り口のようなイメージが私にはあります。

管理職と一般教員の架け橋、のような立ち位置だと思いますが…今の私の学校の教務主任は新任教務主任。もはやただの奴隷。校長の奴隷。

「あれやっとけ」「はい」「これやっとけ」「はい」

今年の校長はモノ言うタイプの校長なため、どう見ても奴隷。

 

大してありがたくもない「大学生インターンシップ生」の、配置先決めなんかをやらされたり、お姉様先生のご機嫌を伺いながら言いたいことも言えずにほそぼそとやり過ごしておられます。

年齢は30代後半。わたしと5、6歳しか違わないはず。

 

夜遅くまで仕事をして帰る生活。自分から望んで教務主任になったのではないそうだ。今の仕事内容はそのほとんどがやりたくない仕事だろうと勝手に推測。

聞くに小学校低学年のお子さんの入学式には出られなかったとか。

 

教員生活10年間で4人の教務主任に出会いましたが、ほとんどが、楽しくなさそうでした。

当たり前のように9時10時まで残り、土日も出勤…という仕事の仕方をされていました。

 

職員室でも、教務主任について影で文句を言っていることが多い。

今の教務主任は新人なので、まだあたたかい目で見られていますが、他の場合、それはもうひどい言われ方。

 

ここまで私の教務主任イメージと現状を書きましたが、要するに言いたいことは…

 

 

わたしは教務主任なんかにはなりたくない!

 

ということです。これは、わがままなことなのだろうか…。

先生になる人は、そのほとんどが「校長になりたい」と思って試験を受けるのではなく、「担任の先生になりたい」という思いで教員採用試験を受けるはず。

そこで出会う教務主任や教頭(教頭も大変でしょう…教頭のほうがもっと大変か…?)のボロボロになった姿を見て、だれが一体「ああなりたい」と思うのだろうか…疑問です。

 

実際、こういう風に管理職になりたがらない人が今は増えている、という記事をどこかで目にしました。同じことを考えている人は、少なからずいるんじゃないでしょうか。

 

教務主任、教頭、校長になるには、「様々な実践や指導記録を発表していたり」「研究会で実績を積んでいたり」「組合的な諸活動で貢献していたり」するような人が選ばれていくのだ、と思っていました。

ですから自分は誰にも見つからないよう細々と、目立たぬよう自分のやりたいことをやってきていましたが、どうやら今の時代そううまくはいかないよと、元校長の大先輩に忠告をされてから、もやもやが頭の中に生まれました。

 

元校長の大先輩が仰るには…

 

「30代後半で、体育の手本を見せられなくなった瞬間があった。そのとき、あっ、と思った。」

「10年以上も担任をやっていると、結果が見えてしまうときがある。そうすると、どうしてもやる気がなくなってくる。」

「手本を示せなくなってくると、口だけになり始める。当然子供は担任から離れていく。」

「加齢とともに、こういうことはみんなにあること、普通のこと。担任を続けたいなら、そんな中でもプロを目指してやるしかない。それでもやりたい、という思いが必要。」

「それぞれの年代の人間に、それぞれの役割があるってもんだよ。」

 

とのこと。

そうだよなあ。

 

女の先生は、定年まで担任という先生がゴロゴロいる。男の先生には、少ない気がする。私の周りでは、2人しか知らない。でもその二人に共通しているのは、「若い」「熱い」ということ。

2人とも、ゴリゴリのマラソンランナーである。

体力的にも技術的にも若さや熱意のようなもの、それがないと担任はつとまらない。

 

大先輩から教わった、簡単なこと。

「教務主任であろうが学級担任であろうが、なんにせよ頑張る。頑張れないならそこから退く。」

 

学級担任だって大変だ。

ただ、その時にやりがいを感じられる仕事であるかどうかだけなんだ。

 

自分はこの先、どうなるか。

大先輩にはそのとき「あんたは教務主任やれそうだから、古い仲間に報告しといてやるでな。ははは。」

と冗談で言われた。大先輩曰くどうやらやれる素質はあるらしい。やりたくないが。

 

「いつか話があったとき、断りを入れることはできるよ。」

 

本当なのか?

 

「その時は生涯プロの担任として努力をし続ける覚悟をすればいいんだ。」

 

 

今は担任を「やりたい」と思っている。

そのときに「やりたい」と思っていることをやろうと思う。

「やりたい」が「学校の先生」じゃ無くなっているかもしれないし、先のことを考えても仕方ないか。

 

 

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小学校、置き勉解禁か?のニュースについて思うこと

先日、ニュースになっていましたね。置き勉問題。

 

重いランドセル 文科省が“置き勉”認めるよう全国に通知へ | NHKニュース

 

現場では大きな問題にはまだなっていませんが、いったいどうなるのでしょうか。

昨日6年生の子供達に、今こんなニュースが出ていたぞ、と話したところ…歓喜の声。

そりゃそうですよね、自分も子どもの頃にそう言われていたら、うれしかっただろうなあと思います。

ただ、重かったという実感はない。やはり今の方が重くなっているんでしょうね。

 

「先生、教科書取りに行っていいですか?」

教室の机の中は、半分は「お道具箱」が占めています。

あとの半分に教科書を入れるんですが、確かに現状では、収まり切りません。

そうなると子どもたちは勝手に工夫して、午前の授業の準備だけ中に入れ、午後の準備はランドセルに突っ込んだままにしておく、ということをしているようです。

 

午後の授業が始まると、そうしたことを忘れていた子は、準備がランドセルに入っていることに気づいてハッとして、言いに来るわけです。

「先生、ランドセルに取りに行っていいですか!」

よく5時間目にありがちな質問。

いや、そもそもそんなこと聞くな!勝手に行け!!

 

冊数が多い…社会科。国語。

社会科がある日は子供は大変です。なぜなら一番使用する教科書ノート類が多い。

社会科の教科書、ノートに加え、地図帳。そして「社会科資料集」。こいつが重い。

この4冊、机の中の存在感はなかなかなものになります。

 

国語も多い。国語の教科書、ノート。更に国語のワーク、漢字ドリル、漢字練習帳。合わせて5冊。

これがほぼ毎日あるわけですから、大変でしょう。社会も週に3日あります。

国語と社会がある曜日はそれだけで9冊になるわけですね。そりゃあ、収まりません。

 

算数は分厚い。以前は上と下で分かれていた気がしますが、今の6年生の算数の教科書は合わせて一冊。これがなかなか分厚い。当然、重い。

 

この準備に加えて、部活の用意、水筒。

習字道具や絵の具、鍵盤ハーモニカが必要な日もある。

月曜日は給食エプロンに体操服もいる。

確かに今の小学生、大変かもしれません。

 

 

置き勉、大賛成。

私としては、大賛成です。

なにより、叱ることが一つ減る。これがいい。

教科書は持ち帰らせなくてはならない、と、初任者時代に指導者の方に言われた気がします。

今までずーっとそうしてきましたが、賢い子は今までも置き勉をしていました。教師の目をかいくぐって。

 

だからこちらもなめられてはいけない、とか思うのでしょうね。

授業後に教室の後ろから机の中を見て、チェックなんかしちゃったりして。

ああ無駄な時間。完全に無駄な時間です。

無駄に叱らなくてはならない。

 

自分のクラスだけ置き勉許可にする?

それもいけません、学校も組織ですから、ある程度足並みは他クラスと揃えないと、指導が通らない。

 

ですから、置き勉許可、大賛成です。

 

置き勉許可によって起こる問題はあるのか?

勉強を塾やら何やらでやっている人は、教科書よりはるかに分かりやすい参考書などがあるでしょうから、大きな問題はない気がします。

 

ただ、普段から家で勉強をしない子は、より一層勉強しなくなるのではないかなと思います。

保護者に「テスト前でしょ、勉強は?」と言われても、「教科書ノート学校だし。」で終わってしまう。

 

あとは何でもかんでも置いていってしまって、宿題忘れが増えるような。

机の中に常にものがある状態になり、より一層整頓が行き届かないようになる気が。

 

いやでも結局…

置き勉不可でも、きっちりやる子はやる。やらない子はやらない。

程度はあれ、置き勉が解禁されたとしても、やる子はやるし、やらない子はやらない。

あんまり変わらないか!

 

タブレット教科書とかになればいいのに。

クーラーさえ完備されていない公立小学校にはまだまだ夢の話ですが。

 

というわけで、置き勉問題解禁、私は賛成派です。子供も嬉しいことでしょう。

自分にとっては叱ることが減るから、ということが一番大きい理由ですが…。

どうなるでしょうか。

 

 

さて、今日の授業は…理科と総合と硬筆書写と算数。

まあ荷物は少ない方ですね。

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先生が早く帰るために…保育園に間に合うように気をつけていること。

早く帰るために必要なこと。それは本当に「早く帰る」ということなんだと思います。

なんだそれ、と思うかもしれませんが、早く帰りたければ、早く帰るしかないです。

自分は娘の保育園に行くために、5時半に出ないと間に合いません。退社時間5時半が義務です。

 

前任校は、生徒指導を必要とするやんちゃな子が多い学校で、毎日毎週のように地域から電話が入り、出動…。やれ万引きだ、公園で危険な遊びをしているだ、給食費未納者の取り立てだの…。そんな環境で、自分の校務分掌や授業の準備に手が回らず、時計を見たら23時、24時なんてことはザラでした。部活もありますしね。

 

車で一時間の距離にある学校でしたので、そんな日の帰りは眠気との戦い。

よく路肩に駐車して、仮眠をしました。そんな日は必ず朝まで寝てしまい、帰宅できずそのままUターンして出勤…。苦しい日々でした。10kg太ってしまいました。

 

そんな生活に嫌気がさしたため、異動の際には安定した学校を希望。

希望が通ったのかよくわかりませんが、ありがたいことに今の学校はとても落ち着いています。

早く帰れるか帰れないかは環境の面も大きいですが、今思えば、前任校でももっとできることはあったなあと思っています。

 

自分の業務終了時間を決めること

先に書きましたが、私のタイムリミットは5時半。厳守です。

ここを守らないと保育園に間に合いません。そして、それを周囲に言うこと。

保育園の迎えに行かなくてはいけないという理由は最強の理由ですが、もはや帰る理由は何でもいい。自分の中で理由をきちんともち、時間を決め、それをちゃんと守る…ように心がける。

前任校のような環境の方はイレギュラーが多いですので、うまくいかないことも多いでしょうが、しかしそこにこだわることは大事だと思います。

6時に帰りたければ、仕事が残っていても、6時に帰ってしまう。でも家に仕事は持ち帰りません。意外と何とかなるものです。そうなると、他人依存度が高い仕事から始めるようになる。他の職員に迷惑はかけられないですもんね。

集中して仕事をするようになる

前任校で帰りが遅かった理由。それは、諦めていた、ということ。

もはや早く帰ることは無理。どうせ早く帰れない。と、定時で帰ることを諦めていた。

そういう意識があると、一個一個の仕事に対する集中力が低くなります。

今は、5時半が絶対。何が何でもやるしかない。些細な仕事でさえも、集中してやるようになりました。その分疲れますが、遅くまで残っていた時代に比べて疲労感は少ないです。

諦めも大事

この仕事は「やったほうがいいけど、やらなくても何とかなること」が多い。

あと、「よく考えれば義務じゃないけれど、伝統的にやるとよいとされていること」も多い。

例えば、朱書き。けれど、30人近いノートや図工作品にコメントをする時間はありません。

そこで自分は、朱書きを諦めました。やらなくてはいけないと思っていたけれど、諦めたら、楽になりました。

そのかわりに、必ず作品等を返却する時に、それについてのコメントや、会話をするようにしています。その時間を、授業中に確保する。むしろ、この方が、子どもの心には残るのではないでしょうか。

ただ、残念なことにその言葉は保護者には全ては伝わらない。朱書きなら、保護者にも伝わる。

これを、最初の懇談会で保護者に伝えます。正直に。

「朱書きはしない。言葉で伝える。その時間は授業の準備時間にする。」

「今日1日の仕事to doリスト」を見て、諦めても問題ないことは積極的に諦めてみる、ということも大事だと思います。

その場で終えるよう努力する

割と今の職場の先輩先生方は、帰るのが早い。学ぶことも多い。

とりわけ、テストの丸つけ。これが早い。どうしているのかなと覗くと、テスト時間中にほとんどの丸つけを終えている。成績もその場でつけている。すごいなあ、と思います。これは正直、まだなかなかうまくいっていません。課題です。

コップでお茶を飲まない

どうでもいいことですが、マイボトルを使用しています。お茶、水筒で持参です。

このタイムリミットのある生活だと、学校でコップを洗う時間ももったいない。

それくらいの勢いで仕事をします。気合いです。

コーヒー好きなんですが、我慢です。優雅に飲んでいる暇などありません。

マシンでコーヒーをいれている時間、そのカップを洗う時間。もったいない。5時半に帰るためには、それくらいの勢いが、今の私には必要です。

水筒は当然家で自分で洗うんですが…。

でも同僚との会話は大切にする

駆け抜けるように仕事をするけれど、意識して同僚との会話はする。

忙しい感を出し過ぎないようにすること。これには気をつけなくてはなりませんね。

いやらしい感じではなく、この人は早く帰る人なんだという印象作りを職員室の中でする。

そのためにはきちんと会話をする。困っていたら助ける。

働き方を考える

働き方の本を読んでみると、いろんな発見がありました。

以下はオススメの本です。

「働くパパ」の時間術

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マニャーナの法則 明日できることを今日やるな

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全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術

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うまくいかない日のほうが多いのですが、何とかして早く帰る。

そして、自分の時間を生きる。

だけど、仕事の質は落とさない。

やることは多いですが、今日も頑張ろうと思います。